2015年度 卒業論文・設計 成果報告!と感想。。。

こんにちは

M1ゆげたです。
前回のブログから大分時間が空いてしまいましたが。。。
(年末あった種々のことは近日中にまとめてあげます。。。2、3月中に今年度の振り返りできたらいいな。)

今回は、1月31日に全体講評会を終えた、今年度の卒業設計・論文について報告・(今年は特に何か傾向性が強いように思えて個人的なフィルターがかかってしまっているような気もしますが、、、)感想書きます。
ちょっと長文になってしまいした。。すみません。

まずは論文組から。

■あやちゃん
中村彩『豊洲の生活空間史研究 −戦後の埋立地に展開した工場・社宅のモザイクに着目して−』


↑卒計組やわたるのお世話まで、、、ほんとにお疲れ様。。。

2020年に向けた開発が押し寄せる豊洲に注目し、かつて工業地帯だったエリアから住商混合地区になるといったマクロな評価ではなく、
その大きな変化の中でそこにいた人間の生活空間はどう変わっていったのかをインタビューや住宅地図、航空写真を観察しまとめ上げた研究でした。

工場従事者の生活空間として仕事も生活も一局に集めるという動きと、生活空間の質の向上を図るための職住分離の動きが混同してくると豊洲の街は工場と社宅のモザイク状の発達が見られ(工場に隣地する社宅は実は別の工場の社宅になっていたりする。)、商店街は社宅と交通の間に入り込むといった具合に街全体がモザイク状に発達していくという経緯がなんとなく面白い。このモザイクが発達した背景や人の移り変わり、工場がやってくる前の地主の事情まできちんと図化されていると、もっとわかりやすかったかな?

■わたる
塩田航『英国旅行作家イザベラ・バードが見た明治初期の建築 −日本嗜好の理解として−』


↑論文とは別の何かを作ってそうな重装備。。。

日本に西欧化の波が押し寄せた1870年代頃、外国から日本を視察に来ていた旅行家による手記が残っている。
イザベラ・バードはそのうちの一人であるが、彼らが日本にどういった風景を求めていたのか。
彼らのオリエンタリズムな色眼鏡を通して、当時の日本嗜好の実態を明らかにしようといった研究でした。

外から見る日本像はどういった価値観の元で形成されいくのかという非常に興味深いテーマだったけど、結局ジャポニズムの正体ってなんだったんだろう。
もっと都市的な視点を取り入れても良かったと思うし、正直内容についてもっと踏み込んでたくさん議論できれば良かったとちょっと後悔してます。。。

次に設計組です。

■たけし
大谷剛『かつて、そこに「」があった。』


↑佐々木先生の高い評価を得ている図

かつて風評によってハンセン病患者を虐げてきたという事実がどんどん希薄していってしまう現代において、
そこに隔離の実態があった証をハンセン病患者の記憶に寄り添いながらその感覚を元に空間化(高齢者施設として)していくという提案。

あまりに重たいそのテーマと感覚体験を空間に実態化していくという難しい内容に対して、
たけしの中に築かれた感覚をとても詩的に美しくまとめ上げた力作でした。

その自己陶酔的にも捉えられるプレゼンと提案に賛否両論ありましたが、、。

見事に堀口賞を受賞しました。おめでとう!
考えれば考えるほど重たく思えてしまうようなテーマにとっても個人的で叙述的なやり方だが真摯に向き合い、
そのスタンスを保ち続けた姿勢は正直真似はできないと思いました。


↑堀口賞を重く噛みしめている図

■トミー
富山大樹『舞台に楽屋と袖を Kiyomizu-dera Museum Project』


↑石榑先生にプレゼンするとみー

いわゆる観光地と呼ばれる場所を訪れる人々は「記録」することを目的にした傾向が見られる。
そこにある本質的な意味や資産を活かし、そのシーンをつなぎ合わせて「経験」として昇華させるといった提案。

京都の清水寺を舞台に、「本堂以外に関心が向かない理由」(←個人的にはこの部分が共感とともに結構面白くてよかったと思う。)を構造的に分析し、出来上がる空間体験をBefore/Afterで緻密に計算された作品でした。

↑スライドサポートするいけだ氏と、プレゼン中に心の声が漏れるトミー


なんと今年はこれが建築学科賞に選ばれ、青井研から堀口賞、建築学科賞の作品が出ました。やった〜!!

■きょーへい
西恭平『国立国会公園 −対話・余暇としての直接行為−』


↑今年の審査員はTNAの武井誠氏、明治大学 准教授で哲学者の鞍田 崇氏でした。

国会議事堂がもはや戯画化されており、議論としての場ではなく、合意の了解のための形式としての役割しか担っていない。
海外では国民が法や議員の上に立ちそれを見下ろすといったような構図を議事堂のリノベーション(例えばノーマン・フォスターのドイツ国会議事堂)で作り上げるといった事例も見られており、国民と法の距離を日本で調停するならどういったデザインがあり得るかという提案。

これもかなり重たい内容を扱っていますが、国民の政治に対する関心や想定し得る現象をかなりリアルに捉えようとした労作でした。
これは佳作という評価でしたが、全体講評会だけでなく、生綾賞最終候補にもノミネートされたりと、議論の対象として多くのコメント(主に空間の変化と政治の変化は結びつくのか、SF的な作品としての評価、全体を貫く軸線と離散的な建ち方、境界面やセキュリティのデザインなど)がなされた作品でした。

■いけだ氏
池田薫『層状都市を起こす・貫く 二子玉川における都市−駅の再編成』


↑もっと積極的に自信持って!!

再開発が終わったとされる二子玉川の街が今後どう変わっていくのかという問いに対して、それまでの二子玉川の歴史的なレイヤーとそれによって出来上がった層状の地理的・都市的構造を発見し、それらを建築的に起こすことで二子玉川の歴史的・地理的な連続を断ち切らない今後の都市開発、建築のあり方を提案するといった作品。

現在の都市の再開発ブームが過ぎ去った後の街のあり方や、それによって生まれてきた高層ビル群も一手に歴史的文脈として捉え、都市構造として建築に取り込んでしまうこれら一連の取り組みが、ものすごい力技といけだ氏ならではの器用さで練り上げられていてとても迫力がありましたが、これは次点という評価でした。

■サガワ
佐川芳孝『生きることの交差 多民族地域社会の「領域性」と「脱領域」』


↑佐川の人を捕まえる熱はいけだ氏に見習ってほしい。。。笑

居住者の2割近くが外国人という超多国籍エリアいちょう団地が舞台。
横浜市郊外に位置するその団地の子どもたちが通う小学校ではその7割が外国人という理由で廃校になってしまったらしい。
文化も生活も違う人間同士が共存するということをもっとポジティブに街に落とし込めないかというテーマ。

明らかに「違う」ことの中で何が障壁となるのか、建築は何を調停するべきなのか、これまでの建築が本来持つ領域性をいかに脱するかという
ある種建築のもつ本質的な部分を突くようなテーマ設定だけにボードに新たな領域のカタチ、風景をデザインしきれなかったことが惜しかったかな。
生綾賞の審査でも4票くらい入ってたのかな?

■あっしー
芦谷龍征『地域と使う学校 宇都宮市立中央小学校でのケーススタディ


↑照れ屋のあっしー

地方都市の空洞化、住宅地の周縁化が進んだ宇都宮市のとある小学校を舞台に、その街に出来上がった空洞を活かして小学校を街に馴染ませようという提案。

地域に対しても学校空間に対してもその形式性を持ちやすい学校建築において地方都市ならこんな展開の仕方もありうるかも!ということを目指したのかな。

小学校という閉じたプログラムをとにかく開いて地域の財産にしたかったのは伝わってきたけど、その大目的はなんだろ。
その敷地の選定/分析から宇都宮のもつ特徴(台湾でも人々が流動的に移り変わったり製糖工場がやってくることのその街に対するインパクトを実感できた。何が宇都宮を変えたのか、その中でその小学校はどう機能できる可能性があったのか。)、学校建築のもつ問題意識(いま意匠、構造、環境、設備とあらゆる分野の建築専門家が学校のより開けたカタチに変えようとしている。それはあっしーの目にはどう映っているのか。)、建築を専門とするあっしーの「そのプロジェクトの中での役目」とは一体何だったのか。作品に対して思っていたこと、考えていたことをもーーっと前面に押し出したプレゼンのが良かった気がしました。

と、以上が各作品の成果報告と感想ですが、、、
建築学生の意見として、個人的な卒業設計の全体総評をします。
↓↓↓↓↓
卒業設計を経験したから見えてきたことなのか、今年の強い傾向性なのかちょっと判断しかねているのですが、
今年の卒業設計は、彼らが作品に対して建築家(建築専門家)としてのスタンスをどう捉えているのかがとても気になりました。
というのも、設計手法に関してはともかく、設定が重すぎて自分じゃ到底手が出せないテーマが多かったと思いました(例えば青井研でもたけし、きょーへいのは本当に手を出そうと思えない。。。)。
未来の都市の提案においてもその想定されうる時代(その未来)の批評性をどう感じ取っているのかがなかなか見えてこない。
トミーの清水寺もそう、他にも鎌倉近美を舞台にした作品もあったりと、そんなところに手を出すのか!!といった作品もこんな提案ができるのかと明示してくれたような気がして面白かった反面、 それは建築が担わなければならない課題なのか、それに「今」取り組む意義ってなんだろと自問自答しながら見ていました。
「今」、建築が世の中に対してどういった立ち位置を示すべきなのかが問われている時代だと思うし、
卒業設計なんだから振り切れて当然、とそれが無自覚に片付けられるのは良くないと思いました。

建築は万能、なんでも解決出来るという幻想が強いのかという見方が一つできる。。
どこにいてもスマホを片手に膨大な情報が手に入り、世の中のあらゆるメッセージと繋がりやすい現代だからこそそれは起こりやすいし、それに対して建築を学んでいる自分がやれるだけやってみる、考えてみるだけ自由ですからといったように、建築家の職能が正直いまだはっきりしない時代を捉えている模索の世代なのか。 ただこの見方は最近の卒業設計のテーマがあまりに多様なのとさほど変わりなく、この年に限った話ではない。

東日本大震災の世代って捉えることもできるかもしれない。。
筆者が入学する年に震災は起きましたが、それを経験してから建築を志した世代なのかもしれない。
2020年の東京オリンピックの話題によって、世間は主題を完全に未来の東京に移し、もはや完全に下火となった原発問題があったりする。
めまぐるしく移っていく社会情勢の中で、一つ一つの社会問題がしっかりとした結末を迎えないまま、または妥協的解決がなされていくことに対して、
見たくないものを視野から外しただけとも捉えられる世の中を敏感に察知していたとしたら、今回の堀口賞はやはり非常に時代性を捉えたテーマだったのかもしれない。

何を持って解決なのか、どこまでそれらと向き合わなければならないのか考えれば途方もないけど、この年代の建築家(まだ卵だけど)はその一つ一つの問題をフラットに捉え、それと向き合うことを億劫としない性格を身につけてどんな建築家像を生み出すのかというのは興味深いなと感じさせる卒業設計でした。

最近悶々と考えてた覚え書きでした。。。
ともかくみんなお疲れ様でした。来年からの活躍にも期待しています!


↑最後に恒例のふざけるM1

M1 ゆげた