2009夏:今和次郎/南洋堂N+スクール/瀝青会/澎湖群島/台湾島
昨日の夜、徐々に台湾の報告をしていくと言いましたがやめます。今から書きます。一気に。台湾の前も含め、僕の2009年の夏、一ヶ月半を。(書いてから思ったんですが、研究室のブログなのにかなり、個人的な夏の感想書いてすみません。以後気を付けます。)
タイトルの「今和次郎/南洋堂N+スクール/瀝青会/澎湖群島/台湾島」今年の夏に僕が経験した、これら5つの出来事に共通することは何か?それは、建築家のつくった建築とはほとんど関係ない世界であるということ。
大学に入学し5年間(僕は1年余分に大学行かせていただきました(笑))の間、そんなに多くはないが実際に、もしくは写真で建築を見てきた。それらのほとんどは、建築家がつくった建築である。その一方で、大学に入学してすぐ住宅特集0406で見かけた「イズ・ハウス」が何となくすごく好きだな〜と思ったことから、アトリエ・ワンに興味を持ち「メイド・イン・トーキョー」「ペット・アーキテクチャー・ガイドブック」を買って読み、普通の街の中にも面白いものがあるんだな〜と思うこともあった。その流れで、トマソンを見てみたり。僕は、自分が建築家のつくった建築だけでなく、普通の建築も面白いと思えていると思っていた。
この夏が過ぎた今、自分が建築にふれた5年半を思い返すと、僕が見ていたものはすごく狭かったように思う。実際の都市や民家を見ることで、やっと当たり前のことが見えるようになってきた気がする。本を読んでわかったような気がしていただけで、実際のフィールドはそれよりも遙かに多くのことが感じられる場所だった。
この夏、建築家の建築以外の世界を考えるスタートは、今和次郎の震災バラック調査を読んだことだった。宇宙人のはなしを紹介 - aoilab 明治大学 建築史・建築論研究室(青井研究室)blogで書いたが、中谷礼仁さんの「世界遺産を宇宙遺産に」に書かれていたのを見たことと、ゼミで青井先生が紹介されたのがきっかけで、読んだのだが、住居の発育の過程が、震災バラックではもう一度繰り返されたという話はほんとに面白かった。
幸運にも今和次郎を読んだすぐ後、下に書いたN+スクールに来られていた中谷礼仁さんの研究室で行われている、今和次郎の「日本の民家」再訪に同行させていただく機会があった。伺った民家は防風林に囲まれた民家が畑の中に点在する集落の中の一つで、築120年くらいのものであった。社会や家族の変化の中で、民家も改築されてきたのだが、特に元は養蚕のための空間であった屋根裏は時代ごとにいろいろな使われ方がされてきたようだ。民家園などで時間を止められ、保存された民家ではなく、今も生きられた民家を体験するのは初めての経験であった。
7月の終わりに、南洋堂のN+スクールというイベントで青井先生が話される機会があり、レクチャーとしては初めて青井先生から彰化の話を聞いた。このレクチャーのハイライトは「都市が生きるために、人が生かされている」という話。人は都市の進化のために生かされているだけだというのだ。人は町家を介して、他者と(隣と)競合することによってのみ、都市と関わる。彰化で言えば、19世紀までの都市が持っていたホメオスタシスが、市区改正という「事件」に遭遇したとき、その新たな次元での安定を求め都市の部分部分で新陳代謝が起きると言うこと。つまり、ミクロで見た町家は市区改正によってできた道路を新しい都市の表と判断しそちら側にファサードを向ける。町家は隣接する新しいコンテクストにのっとって更新されるのだが、細胞である彼ら町家はマップヘイター*1であるために隣しか見ることができず、俯瞰的に都市を考えることはない。ミクロな細胞が新陳代謝することによって、マクロで見た都市は元々持っていたある固有性を継承しながら高次な次元での安定状態に進化をするのだ。この話は、青井先生本人もおっしゃっていたが僕が前から興味のあった塚本良晴の言う「ヴォイド・メタボリズム」もしくはその前に言っていた「タイポ・モルフォロジー」に近い。このことはしっかりと、今年度中に考え文章にしたい。
台湾の街を歩くと、市区改正で切り取られ細長くなった敷地に、奥行き5〜60センチ間口は元の町家の奥行きと表を読み替えた建物が建ち店が営業しているのを見る。彰化では何件もの町家が市区改正道路に垂直に建つために、協同建て替えをした場所もあった。
机の奧の壁は隣の建物
奥行きが狭いため、ショーウィンドウがそのままお店になっている。店員さんも商品と一緒に中にいる。
8月に入り、研究室で台湾調査へ。実測調査、本格的なフィールドワークはM1にして初めての経験であった。
澎湖群島のなかでいちばん面白かったのは、吉貝。*2
三合院(凹型平面の住居)が集まってできたこの集落は、相続の際に三合院が分割され、三合院の1/2の面積の町家、1/4の町家へと更新される。1/2だけ更新され、残りの1/2は廃墟のまま残っていたり、1/4だけ廃墟として残っている場合もある。
この街で、山中・大津と更新されできた町家型住居のタイポロジーを考えた。敷地の分割の仕方・ヴォリューム・工法などの視点から考えるとかなりのバリエーションがあった。しかし、実際にはそのすべての組み合わせが存在するわけではない。この集落は、島の南側に位置し海に向かって緩やかに勾配を持った場所にある。集まった三合院は中庭を海に向け、住居を海に向かって開放している。北側で接道していようが、住居の向きは海向きなのだ。実際の勾配は緩やかでも、この集落は非常に強い空間の勾配を海に向かって持っていた。では、分割されながら更新された町家型住居はどうか。いちばんの問題は玄関である。今まで一つの玄関しか持たなかった三合院を2つ、3つと割るのだから、アプローチ方向は限られる。つぎに、ヴォーリュムで一番の特徴を見せるのはバルコニーである。バルコニーは可能な限り、元の三合院と同じ開放の向き(海側)を踏襲しヴォリュームにとりついている。
以上のことを考えると、敷地の分割の仕方・ヴォリューム・工法と別々に考えた場合はかなりの組み合わせがあるが、実際に三合院の分割の仕方・接道・海の方向(敷地における街の空間の勾配)がわかれば、そこに建ちあがる建築の形態はほぼ想像できるのだ。
というようなことを考えながら実際の生きた街を歩くのはほんとに楽しかった。
調査終了後、台湾島に戻りいくつかの街を回った。
台北の町中で町家が解体され、空き地になっているところがあり、そこから見える両側の壁にはいろいろな痕跡が見えた。
日干し煉瓦の上に、煉瓦で壁を積層していった痕跡。
隣に建っていた町家の母屋が壁に差し込まれたまま壁が立ち上げられた痕跡。隣の町家が解体されても、その母屋の名残がある。ここまで激しくなくとも、隣の町家の痕跡は日本の町家でも見ることができるんだとほんとに実感したのは帰国してからだった。もちろん、知っていたし見たことはあったが、意識的に見たのは台湾で意識し始めたからだ。
京都四条付近。京都にはきっと膨大にあるはず。
僕の地元の岐阜市。帰国後意識して見たら、かなりの数があった。
こんなこと、当たり前なのだがこれを実感できるようになったのは僕にとって発見であった。
以上のように、この夏は延々となんでもない普通の建物、都市を見てきたのだが、それらの持つメカニズム、もしくは無意識のデザインというのは、時としてすごい力を持ちうるということを感じた。感じたというのが僕にとってはほんとに重要な体験で、文章を読んでわかったのではなく、肌で感じられたのがこの夏の最大の収穫であった。
なんとしても、これを後期の研究とそれ以外の活動に結びつけてやる。
近いうち(金曜以降)にもう少し台湾の報告と、この前の渋谷学のレポ書きます。
GURE