京浜工業地帯・池上町・獄舎・戦後都市発生学研究会

少し前に、大学院の授業(まちづくり特論)で川崎市の臨海部に広がる京浜工業地帯をバスと船で見て回った。(青井研からMマスとSっちと僕が参加)

そのこと+αを報告。


川崎市の臨海部は埋立事業により面積を拡大し京浜工業地帯を形成してきたのだが、その埋立事業は1913年に浅野財閥浅野総一郎)によって始められ、その後京浜運河がつくられるのと並行して鶴見方面からも臨海部の埋立が進められてきた。現在、首都高が走っているラインが、ほぼ江戸時代の海岸線であったという。面積は市域の約2割を占め、僕たちの大学がある多摩区と隣の麻生区を足したくらいの大きさだそうだ。(詳しくはhttp://www.city.kawasaki.jp/58/58kikaku/home/shoukai/rekishi.htmのページに載っているのでチェック)

授業としては、この臨海部が高度経済成長以降抱えてきた環境問題と、バブル崩壊以後の工場海外移転によって土地利用が変化してきていることを問題として、行政と企業がどういった取り組みをしているかというものだったのだが、実際に船に乗り、京浜運河から太平洋に抜けながら、今まで感じたことのない圧倒的なスケール感の工場群を体感できたことが非常に面白かった。普段、自分が街で体感している人と建物のスケールの関係が、この街ではトラックと建物の関係と同じくらいになっていた。大きなトラックはスロープを上りながら巨大な建物の2階、3階、4階…へと行き荷物を積み込み、背後に広がる都市へと供給する。もちろん巨大な建物まで荷物を運んできたのは、巨大なタンカー。逆に都市で使われてここへ持ってこられ、海外へ輸出されるものもある。このときはブルートレインが輸出を待っていた。






見学の道中で授業の担当をされた田中先生から「池上町」の場所を教えていただいた。
もともと僕がこの授業に参加させてもらったのは(履修していない)、年度初めにあった大学院1年を対称としたフレッシュマン懇親会で田中先生から川崎の都市のこと(京浜工業地帯、池上町、風俗街の堀之内と南町、球場、競馬場、競輪場…など)を教えていただいたからだ。
今回の授業は主に京浜工業地帯の見学で、池上町や堀之内など都市の闇の部分と言えるようなところを見学することはなかった。

池上町。JFEスチールが所有する土地、約2万3000㎡に約250戸の住宅が密集している町である。この地域は、戦時中にJFEの前身である日本鋼管が軍需工場建設のために取得した土地で、現在もJFEの所有地である。つまり、現在この土地の住民たちは「不法占拠」していることになる。

数日前、行ってきたので、その感想。航空写真を見てもらえばわかりやすいのだが、この街は周りをすべて囲まれた閉鎖的な町である。北側は、線路の高架とその下の駐車場、並木道と首都高が連続する。南側は、JFEスチールの工場との境にフェンスと高い樹木が茂っている。西側は、運河が引き込まれコンクリートの堤防が覆う。東側には工場が建つ。その中に、住宅群が毛細血管のように隙間を空けながら建ち並ぶ。北側の敷地のいくつかは、鉄道が高架になり拡張した際に削られたのか、細い敷地にユーモラスな建物が建っていて、町の断面を見るようだった。道はあくまでヴォリュームがたちあがった後の、残余空間としてできている。町は敷地境界が無いようなにできおり(実際の権利関係はわからない)、それぞれの住戸の周りの隙間は、町中繋がっていて、細い庭を共有しているようであった。隙間には、物干し竿や植木、室外機、バイク、自転車、プロパンガスのタンクなどのものが置かれ、その間を子供たちが走り回っていた。窓はどちらに開こうが、隙間を挟みすぐに隣の住戸があるため、どちらかの方向に開くわけでもなく隙間に対して開いていた。隙間が狭すぎて、隣の家の樋がへばりついた家もあった。周りからはいろいろなものに囲まれ、閉鎖的に見えるが、町の内部の住宅同士の関係は深いように感じた。

北と南の町と外の境界



町の北側の建築立面






町の内部







先週と今週のサブゼミで長谷川堯の『神殿か獄舎か』(相模書房、1972年)を読んだのだが、それをふまえて池上町は獄舎だと感じた。町を獄舎だなどというと、誤解を招くと思うのだが、長谷川堯は“獄舎”という言葉を使い、建築はあくまで自由を奪う加害者でしかないのだから、それを引き受けた上で建築に何ができるかを考えた建築を、評価している。京都を例に挙げ、内に向かって開く獄舎的都市空間を説明している。獄舎的な都市において、建築のファサードは建築の外壁と街路や広場の内壁、という二面性を持っているといい、獄舎のつくる条件として、Defence壁をたてること、Dimensions内に開くこと、Detail装飾をあげている。つまり、池上町が獄舎だと感じたというのは、高架やフェンス、運河によって外部に対しては壁をつくっていながら、内部には開いた住戸同士のつながりを感じたからである。


M2のMさんの研究に少なからず、この池上町はリンクするように思う。都市の中でいろいろな条件によってできた、自閉的な場所を探し出すというものだ。

また、今年度から青井研に発足した「戦後都市発生学研究会」(幹事K君、僕もメンバー)で調べる、戦後日本における都市生成に関わった事例としても取り上げることになるかもしれない。

川崎在日コリアン生活文化資料館ー資料室のページで昔の池上町の写真が掲載されています)

「戦後都市発生学研究会」は秋をめどに、成果物を作れるよう活動していきたい。


GURE