大黒市場+恵比寿市場/松原マーケット/土橋市場/旦過市場

今回のゼミ旅行では九州北部に現存する戦後復興期に発生したマーケット、あるいは戦後復興期の露店市が昭和30年前後に整理され、その場もしくは移転し再建された建物を4カ所見て廻った。案内していただいた方々のお話と、お店の方への聞き取りで得た情報を元にレポート。

大黒市場+恵美須市場


長崎駅から南西へ10分ほど歩いた大黒町と恵美須町の間を流れる川の上に大黒市場と恵美須市場は建っている。戦後すぐ長崎駅前に発生した露店や屋台による市場を整理するために、昭和31年に長崎市が幅10〜18m(河口に向かって広がっている)の川を約180m暗渠化し(写真右上)、その上に切妻木造二階建ての大黒市場と恵美須市場を建設した。大黒市場(写真左上)はそのほとんどが増改築され当時の外観を捉えることができないが、恵美須市場(写真右下)は比較的増改築がされておらず、建設当時の外観を見ることができる。ヴォリュームの中心、妻方向に通路が通っており店舗は全てその通路に向かって開いている。つまり、増改築が行われいている場所は背面である。もともと二階は住居として使われていたが、現在は物置になっており住んでいる方はいない。
東京の露店整理でも、川を暗渠にし一階店舗・二階住居の建物を建てる事例や、あるいは戦後の私設マーケットで一階店舗・二階住居の建物は珍しくないが、ここまで激しく増改築されている事例は見たことがない。来年中に立ち退きが決まっているそうだ。



松原マーケット


佐嘉神社西側に位置する。松原マーケット内のタバコ屋のおばあさんによると戦後、引揚者団体が鍋島報效会の土地を借りてはじまったマーケットであるという。引揚者マーケットの成立と展開を研究していらっしゃる中島和也さん(東京大学大学院2009年度卒)によれば、昭和21年8月に鍋島家の土地(私有地)の無償貸与を背景に松原マーケットが開店し、徐々に佐嘉神社境内(当時国有地)に向かって拡大して行ったという。その後、昭和26年11月〜28年4月にかけて境内地払い下げ問題を機に境内地(国有地から神社所有地に変わった)に立地していたマーケットは移転した。現在はかなりの部分が歯抜けになっていて、駐車場へと変わりつつある。佐賀市が整備を行っている(→これ)。
以前中島さんに写真で見せていただいたガエ・ハウスっぽいかっこいい建物も発見。



土橋市場
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福岡県八女市の土橋八幡宮の境内を木造二階建ての建物と木造アーケードが覆い尽くしている。建築家の中島孝行さんと白水さん夫妻にご案内いただいた。白水さん夫妻と土橋市場のブログ→(丸刈り奮闘帳「明治大学、青井研究室訪る」八女の手仕事土橋のきもち。)。
終戦後、引揚者による露店が土橋八幡宮の鳥居前の通りに並んでいた。その露店を整理をするという理由と、引揚者の方々に定着した店舗を持たせてあげたいという理由から、当時の福島劇場オーナーが氏子と交渉し、昭和22年境内地での営業が実現した例。神社から構造は木造に限るとされたものの、期限は設定されなかった。現在の建物が建つ前から存在した灯籠は店舗に飲み込まれ、屋根から先っぽを少しだけのぞかせている。営業開始当時は1〜2間四方の店舗が約70軒存在し、あらゆる品物を売っていたというが、現在は当時の店舗を2〜4軒分統合し1店舗となっていることがほとんどで、営業していない店舗もあわせて現存する店舗は約30軒、そのほとんどが飲み屋である。営業者は家賃を大家に払うとともに、店舗の間口寸法に応じて土橋市場組合に組合費を納めている。八女は元々城下町で、その町地は伝建群に指定されている。露店営業者の中にはその中に取り込まれ、定着した人もいたという。
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右の写真の真ん中に小さく灯籠の先が見える。

白水さんにいただいたmap


旦過市場
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北九州市の紫川に合流する神獄川の上と隣地にわたって広がる市場。大正初期に川を昇る船が荷をあげ商売を始めたことが起源とされるが、戦中期には機能しなくなり、戦後は闇市として出発している。闇市として建ちあっがった市場が現在の状態に整備されるのが昭和30年前後で、間口が店舗ごとに異なっているのは闇市時代の店舗面積を踏襲しているからであろう。メインの通りと裏路地の店舗をあわせると約120店舗。
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GURE