サブゼミ-D・ハーヴェイ班−1

我々が生活している今の世界は、各自の生産活動を行い独自の経済圏を拡大・促進することだけではなく、世界経済の融合と連携深化しつつある「グローバリゼーション(地球規模化・globalization)」という現象が起きている。言い換えれば、「新自由主義ネオリベラリズム・neoliberalism)」という資本主義形態のグローバル化のことなのだ。

市場の自由競争を信じている新自由主義的な社会は、資本がよりフレキシブルに動けるために、外部に対して世界の金融組織(WTOなど)を導入したり、内部では資本に応じての規制緩和などをしたりしている。しかし、このような「国・社会の経済発展のため」のやり方はいったい誰によって、誰にとっての意識なのかというと、経済的拡大それ自体が目的化するか、ある特定の階級層にとっての利益のみが目的化することになりかねない。

 そもそも資本主義では、資本の運動が社会のあらゆる基盤となるということがこの世の支配権力に認識されている。社会を推し進めれば、資本を動かなければならない意識は、資本主義社会を強めている。そういったところで、国家的政策の操作と資本の運動の動力はそれで組み合われていく。

 かのマルクスの視点においては、資本主義とは、生産する行為を通じて価値を創出しうる。その価値は商品・資本となり、社会で流通しているものは資本主義社会における経済の根本である。しかし、資本は蓄積する傾向がある。それは、資本を生産する行為は常に過剰資本の生産を続ける。その生産のプロセスにおいて生じた剰余価値は新しい追加的な資本に転用される。そのとき生産の規模は拡大され、より剰余価値を生産していく。

価値と剰余価値を生産するために、原材料、労働者、機械を揃って生産プロセスを行うというのは工場であり、資本を生じる第一前線の空間である。更に、資本主義では、生産プロセスに関してあらゆるものも資本になれる。例えば、労働者自身もひとつの資本である。そのような場合、人的資本としての労働者階級と彼らを駆使し新たな資本を生産する支配階級とが生まれ、剰余価値を生産する過程において階級が生じる。そのとき労働者の住居などの空間についても労働力の再生産の場として資本生産システムの中に組み込まれることとなった。

資本主義が自立的に存立しうる最小の単位は都市であり、価値と剰余価値を永続的に生産することでもある。そういった点で、都市は過剰資本を吸収する一つの空間集成ととらえることができる。資本蓄積の過程は、それに応じて空間を創造・再創造する事は当然のことである。それは、資本蓄積による都市空間の形成(アーバナイゼーション・urbanization )である。

 資本蓄積によるアーバンナイゼーションでは、永続的に資本を蓄積しつつあり、それと結びくのは搾取階級と国家権力である。その二つの力は絶え間なく、都市を改造、拡大し、より多くの剰余価値を創出しうる空間形成を推し進めていく。このようなシステムは、プレカリアートプロレタリアートなどの階級層から労働力を搾取し、彼らの居住空間までも次第に開発され転換されていく(ジェントリフィケーション・gentrification)。
 以上のような問題を考えるにあたって、デイヴィッド・ハーヴェイ(David Harvey)というマルクス主義的な経済地理研究者が着目された。それゆえ本研究室は彼の最新の著作である『反乱する都市―資本のアーバンナイゼーションと都市の再創造』(作品社―2013)をサブゼミの参考書とした。

 ハーヴェイは、資本蓄積のアーバナイゼーションによって形成される社会システムや都市空間への反発として都市の反乱が起こりつつあると言い、それの根本にある問題は「都市への権利」が略奪されることであるとし論述している。「都市への権利」とは、都市が造られ、造り直される仕方に対し意見を主張する権利であり、都市に住む皆が持つ権利である。しかし、都市社会学者ロバート・パークがいうような、「人間が自分の生きている世界を自己の内心の願望により近い形で造り直すため」にあるべき都市形成システムは、現実には剰余価値の集積を通じて発生するので、資本蓄積のアーバナイゼーションはある種の階級現象である。

 つまり、都市においてはあらゆる階級の人間が混じり合って生活するための共同的なもの=都市コモンズ(commons)が特定の特権階級層によって略奪されている。デベロッパーの都市開発によるジェントリフィケーションや、金融機関による需要と供給の操作(ex.サブプライムローン)などがそれである。

 このような特定の階級によるヘゲモニックな都市形成過程において、いかにして既存の新自由主義的な資本主義システムに対してオルタナティブを示し、万人に対する都市への権利を奪還するのかという問題に対して、その萌芽として現代の都市反乱をレポートすると共に、そこに不足しているもの、すなわち都市形成に携わるあらゆる主体(プレカリアートなど)をいかに巻き込み自己組織化してゆく可能性があるのかについて考えなければならない。

 …と、概要についてはこの程度にしておき、ハーヴェイの論考に関するより具体的な紹介と、本書を読んだあとに我々D班で考察した日本における都市反乱の歴史や、なぜ日本ではデモ等が起こりにくいのか?という問題については後ほど報告しようと思う。

(つづく)

D 陳 穎禎 、M1 倉石雄太