サブゼミb班第二回

水曜日のサブゼミでは、第二回のb班である創発論班の発表を行いました。
先週にも紹介していたジェイン・ジェイコブズアメリカ大都市の死と生」1961です。
コーリン ロウ・フレッド コッター「コラージュ・シティ」については時間の都合により紹介できませんでした。
今回は残念ながらできませんでしたが、いつか発表できる機会があればと思います・・・。



前回に発表したスティーブン・ジョンソン「創発」2001に続き、今回はジェイコブズの創発について

まず、ジェイコブズがこの本で真っ向から攻撃していたものは、当時の正統派都市計画や再開発を形成する原理や目的である。田園都市論(エベネザー・ハワード)・輝く都市構想(ル・コルビュジェ)・確立論の吸収は、都市が組織的複雑性として扱われなかった大きな原因だと述べる。

<歩道のバレエと短い街路の必要性>
都市近隣の街路とは、見知らぬ人々と出会い、接触を交わし続けるものだ。昼間に母親たちが世間話をし、夕方に子供が道草を食いながら帰ることができる歩道。多くの短い街路が交差することで、多種多様な出会いと活気が生まれる。"人々の目"というものが、自然と安全や治安の良さを生んでいた。


<多様性の混合>
都市には実に多くの人が近接し、嗜好や技能、ニーズ、供給、こだわりがあふれている。すさまじい混合利用によって都市の多様性は、わたしたちだけで「持てるはずの」量を遥かに上回る多様性を与えている。近隣の多くの小産業やオフィスが多くの飲食店や他の商店を昼間支え、住民はその小産業やオフィスで働く人々を支える。このような無意識に生じる協力によって両者の総和以上のものを生み出すことができている。一次用途の多様性(それ自体が停泊地のようにその場所へ人々を運んでくるもの)と二次用途の多様性(運ばれた人々にサービスを提供するもの)の多様な組み合わせによる相互作用でさまざまな都市の顔をつくる。その組み合わせとは、過剰な複製ではなく"追加"でなくてはいけない組み合わせだ。カーネギーホールの移転による衰退は、そのリンカーン舞台芸術センターの過剰によるものだ。



<古い建物の必要性>
建築費の高騰によって、費用がかかる新築よりも古い建物の改修を行う業者には古い建物はさらに必要になっていく。なければ、小さな事業所は減り、多様性の混合が多様性に繋がらない。単体が持つ量の多様性では自らの更新も活気付けることもできないのである。また住民は、古い建物を趣味に合わせ、費用を安くしようと工夫を凝らしながら使っていく。数多くの趣味と工夫と居住コストの混合により、さらに事業所も人も多様になる。それらは「持てるはず」の量を上回り、永久に己を修復しながら更新して新世代に求められて生きていくことができる。決して"古いだけ"の建物にはしないのである。



<高密と過密>
高密度=面積あたりの住戸数が多い
過密度=住戸の居室数に対して住んでいる人の数が多い(多すぎる)
1960年代のジェイコブズが述べる「いわゆる」スラムと呼ばれるアメリカの近代都市計画によって生まれた新興低所得者・中所得者住区について。選択肢が最も乏しい人々が貧困や差別で過密化せざるを得なくなり、経済的選択肢も存在しない。それはいつまでたっても彼らが形にならず悪循環を止められないことになる。鉄道線路や高速道路、大型公園などの境界の真空地帯は、用途の多様性も単純化しすぎて隣接地域の用途も単純化させ、そこには何も生まれない。単純化して街区が細く長くなってしまえば、"人々の目"は働かないのだ。
脱スラム化するためには、彼らがスラムの街路への愛着を糧にして経済力を上げる方法が必要だ。その愛着とは、自分たちの地元がユニークで世界のどこを探しても替えがきかないものである。高密度居住区であれば、無駄な空地も少なく、建物のバリエーションが高くなり、多様性が生まれる。そして"人々の目"が行き届く。
天災のような都市計画や再開発の怒涛のお金で一掃するということは、スラムを生むのだ。実は、わたしたちのそれに対する無知さもそのスラムを生じさせる原因である。


生き生きとした多様で活発な都市には"再生の種"があり、自分たちの外部の問題やニーズにさえ対応できるだけのあふれるエネルギーがある。永久に起こり続けるちょっとした変化というものが、新世代に求められて生きていくのだ。一掃してしまう都市計画や再開発は、バランスを保った多様性の混合で支え合って生きていた都市の種さえも一掃し、人々は知らずにすでに死んでいた都市の死の循環から抜け出せなくなってしまうのである。

この本からの印象は、都市が主語のように扱われていることである。
すでにできてしまっている都市をどのようにしていくかという今後のヒントが隠されていると思う。

(B4 齋藤)