ナイーブアーキテクチュア VS 塚本由晴 『建築雑誌』2010年3月号

おそらく雑誌で発表される若手建築家の作品を見て「カワイイ!!」と口にしている学生は日本中にいるだろう。そういった建築の流れをつくり出したのは妹島和世であり、青木淳であろうが、若手建築家*1の多くがその流れを押し進めていると言ってもよい。『建築雑誌』3月号は、そんな「イメージ、デザインの強い恣意性を排して、ニュートラルさを持つ抽象化表現で、使い手が繊細なかそけさ、はかなさ、ヤワサ、カワイサの感覚を享受する余地を生む、感覚共有型建築」*2をナイーブアーキテクチャーと規定し、議論した特集(編集担当:真壁智治)である。この特集は、単純にナイーブアーキテクチャーを持ち上げた特集ではない。議論である。巻頭の真壁智治と中谷礼仁の対談では、感覚共有型として近世の粋・侘び・かぶく・数寄などとの繋がり、本居宣長におけるナショナリズムと真壁さんの「ナイーブアーキテクチャーは、他の外国の建築とは違う」という論理構造の一致、過去におけるつくり手と使い手の交わり・現場主義(桂離宮村野藤吾)などが議論され、ナイーブアーキテクチャーの理解に多角的な視点をあたえている。さらに注目すべきは、ナイーブアーキテクチャー特集のインタビューに塚本由晴をとりあげていることである。ナイーブアーキテクチャーから使い手が授受するナイーブさ/つくり手と使い手との関係(感覚共有型建築)/あるいは抽象化などに対して、塚本由晴の共有される振る舞いの話/建築と使い手(人間)との関係/様式や型に対する考えの提示は、この特集を読む読者にナイーブアーキテクチャーを批判的に捉える視点をあたえてくれる。
GURE
などと感じて、この特集はかなり面白いと思うのだが、編集担当者の一人勝矢武之(建築家、日建設計NDS編集委員会委員)の「ささやく建築—抽象化と微候性」という論考の一部は腑に落ちない。抽象化についての「…浮かび上がる建築家の姿とは、自身の教義を植え付ける布教者ではなく、プロジェクトに深く立ち入る現場主義者、いわば「抽象化」という手法で現状を診断し、治具としての建築を実現する医者・整体師のような姿である」という部分である。この特集が呼ぶ一連の「ナイーブアーキテクチャー」は捨象が行われているにも関わらず、強い形やメッセージを発する訳ではない。プロジェクトそれぞれにとっての抽象は、実寸あるいは限りなく大きな模型でスタディを行うことでつくり手自身が模型の中に転移する、もしくは敷地条件から決まるのだが、それを安直に現場主義者と言えるとは思えない。また、「治具*3という言葉は、ナイーブアーキテクチャーに対して完全には当てはまらない。治具とは、特定の使い方のみに特化し、その環境から取り出されると全く意味をなさなくなるモノである。もちろん、ものともの、あるいは、ものと人の関係をつくり出すものが建築であるわけだから、広義には建築は全て治具と言える。しかし、ナイーブアーキテクチャーとは、治具のように特定の振る舞いに対する環境をつくり出すものとは言えない。治具としての建築とは、全く塚本的な建築である。


余談ですが、塚本由晴と対談している小池昌代はきっとすばらしい詩人です(作品は全く読んだことないんだけど)。身の回りに起きることへの、観察と分析が鋭すぎる。是非、この対談読んでみてください。

*1:乾久美子石上純也/中村竜治/中山英之/最近の長谷川豪などもこの流れのなかにいると言ってよいだろう

*2:『建築雑誌』日本建築学会、2010年3月号、8頁

*3:治具(じぐ、英: jig)は、加工や組立ての際、部品や工具の作業位置を指示・誘導するために用いる器具の総称。「治具」という日本語は同義の英単語 "jig" に漢字を当てたものである。
日刊工業新聞社刊「機械用語辞典」によると次のように説明されている。
ジグ jig
治具(冶具)は当て字。工作物を固定するとともに切削工具などの制御、案内をする装置。おもに機械加工、溶接などに用いる。これによっていちいちけがき[1]する手間がはぶけ、加工が容易になり、仕上がり寸法が統一されるので作業能率を増し、大量生産に適する。
これ以外に治具という言葉は色々な分野で使われている。例えば鍍金業における薬液に漬けるための器具、熱処理業においても焼きむらを防ぐための器具、化成品を組み立てるための木型等があげられる。しかしなんといっても一番よく意味するところは、辞典にあるように『金属を削るときに必要とされる装置』である。
Wikipediaより転載)