2009年度 修士論文

『鉄道施設と先行都市の重合・対立・同化 〜鉄道の形態決定条件からみる東京論序説〜』

明治大学大学院 青井研究室 宮地国彦


■はじめに
今日都市に住む我々にとって、鉄道はあまりにも日常的なものとなり、その姿を気に留めることもない。しかしひとたびその姿に目を向けると、それはときに町を分断してしまうほど巨大で暴力的であり、その他の構造物とは全く違う特異な形態をしていることに気がつくはずだ。ヒューマンスケールを大きく越えたこの土木構築物は、都市の構造を歪めてしまうほど異様な存在であるにも関わらず、ごく当たり前のように東京の日常的な風景に溶け込んでいる。
ヨーロッパの都市では、鉄道は市街地の周辺部に頭端式のターミナル駅を設けて、郊外へと伸びていくのが一般的であるが、日本の都市鉄道は市街地を貫通するように建設され、都市交通としての地位を確立した。そのため日本の都市では道路−建物の系と鉄道の系とが、一つの都市空間に織り込まれるように共存している。これまで建築分野から見た都市論は道路−建物の系に特化してきたが、日本都市論とりわけ東京論には、鉄道のように原理の全く異なる系を含めた、複合的な議論の構築が必要なのではないだろうか。そしてこのような都市論の試みはこれまでのところほとんど行われていない。

本研究は東京という大都市を構成している諸要素の中から鉄道に注目し、その形成原理を読み解き、それをふまえた上で鉄道と都市との関係を空間的・都市的に考察を試みるものである。


■山手線の変遷
本研究の研究対象として、現在の山手環状線を構成している東海道本線/山手線/東北本線を取り上げた。その変遷には鉄道施設と先行都市との関係性が顕著に表れている。今日我々が「山手線」として認識している環状線は、はじめから環状線として構想されたわけではない。国土レベルで構想された2つの幹線鉄道が長い年月をかけて段階的に接続していき、現在の体系となったものである。新宿から東京西部にかけて営業していた甲武鉄道が、外濠に沿って市街地内部にまで延伸してきたことを皮切りに、東京では市街地を貫通するような鉄道網が構築された。後続の私鉄や地下鉄は、この山手線を基盤として形成されている。


■鉄道の形態決定条件
本研究では、鉄道の形態決定条件を「位置」「線形」「規模」という3つの視点から整理した。これらは国土レベルから始まる鉄道建設計画が、どのように実際の都市に埋め込まれ実体化していくのかを、段階的に示したものである。

・「位置」:どこに建設するのか
東京では都心部の東西南北の四辺に4つのターミナルが建設され、都心部の外形を縁取るように現在の山手線の西側が形成された。停車場の位置としては主に官有地(もと武家地、境内地など)や農地が転用され、線路の位置としては河岸地や堀などが用いられることが多かった。これらはできるだけ用地買収費を抑え、人家の立ち退きをしなくて済むように配慮された結果であるが、いずれにしても初期の鉄道施設の建設は、江戸時代の土地利用に大きく関わっていたのである。

・「線形」:どうやって結ぶのか
線路には鉄道が効率よく曲がることができる曲率が工学的に導きだされており、その区間の列車の通過速度によって最適な曲線半径が採用された。品川線(現・山手線)の品川−大崎間では、当時最小曲線半径とされた半径400mのきれいなカーブを描いている。分岐駅においては、方向転換のためにスイッチ・バックと呼ばれる反転・切り返しを行わなければならず、これを回避するために短絡線が建設された。鉄道はその特性上、急に止まることも曲がることもできないため、取得した用地を結びつける際には、鉄道独自の工学的条件が働くのである。

・「規模」:その実体化
鉄道線路の最小幅は、建物その他の構造物がその内側に入ってはならないとする「建築限界」によって決められているといえる。1908(明治41)年に定められた「停車場外建築定規」によれば、その最小幅は24.6フィート(約7.5m)である。また鉄道創業当時は一つの駅で旅客・貨物の両方の業務を扱い、さらには整備・点検などの施設も内包していたが、次第に旅客・貨物ともに需要が大幅に増大して当初の施設では管理しきれなくなり、徐々に機能分立が進行してゆく。特に旅客と貨物を別々の施設で扱うことを「客貨分離」と呼ぶ。このとき車両の仕訳・組成などを行うために生まれたのが操車場である。無数の線路群を必要とするために、その建設用地は数十万�にも及び、品川では海を埋め立てて、その他では市街地ではない農地などを用いて新鶴見・田端・大宮などに建設された。


ケーススタディ/鉄道施設と先行都市
本論文の後半ではケーススタディとして、実際に都市の中に見受けられる様々な様態をタイポロジカルに代表するように、3つの場所を取り上げた。「空白」「重合」「残余」と名付けたそれらの場所からは、それぞれに異なる形成過程と周囲の都市との関係性を抽出することができた。

・「空白」:品川
国内最初の鉄道である官設鉄道が1872年(明治5)年10月に正式に開業したとき、品川−田町間の線路は用地取得が困難であったため、海上に築堤して線路が敷設された。「東京の南の玄関口」としての役割を果たすようになった品川は、やがて海を埋め立てて巨大な操車場が建設された。結果として今日この場所では長さ約2km、幅約300mの巨大なヴォイドが街を分断している。

・「重合」:神田
神田駅周辺を地図で見ると、江戸時代から続く既存の町割りと斜めに走る鉄道がレイヤー状にきれいに重なり合っている。一般的な町屋の構造は、正方形街区の中心に会所地と呼ばれる空地を設けていたが、都市が高密度化してゆくにつれて、路地を用いて細分化されていった。神田駅周辺では、既にこの細分化がなされており、町割りが高架鉄道によって切断されても、その切断面の土地や建物の形態が変形するだけで対立が許容された。ここに都市が本質的に持っている“自己修復能力”を見ることができる。

・「残余」:大井町・日暮里
様々な方向の線路が交錯する大崎・大井町付近や日暮里周辺では不整形に土地が細分化されており、一部では分岐点の末端まで建物が立ち並んでいる。神田駅付近には複数の線路の間のわずかな亀裂に小さな建物が立っている。鉄道独自の形態決定条件により暴力的に切り取られた土地は価値が低く利用されにくいが、しかしそれでも都市の一部として利用されている例を見ることができる。


■東京論序説として
本研究のテーマとして鉄道施設を取り上げたのは、それが一般的に都市論として扱われるような建物−道路の系とは全く異なる原理を内包し、都市の中で非常に大きな構築物としての存在感を示しながらも、これまで都市論あるいは都市空間論としてほとんど議論されてこなかったことによる。しかしその姿は巨視的に見ても近視眼的に見ても、他の構築物に比べて明らかに異質であり、その具体的な形態は独自の工学的条件と先行都市の状態によって、極めて合理的な判断の集積として実体化したものであった。さらに驚くべきことには、鉄道施設の形態決定原理が他の構築物と異なるために生じる様々な空間の断絶や歪みは、周辺都市が自己修復・適合することによって、都市の一部としてのみ込まれていたのである。

ここに日本の都市、とりわけ東京における都市の本質を見ることができる。すなわち都市とは、幾多の小さな合理性の集積であり、ある範囲内におけるその合理的な判断を原動力としながら、先行する都市の状態と絶えず整合性を図りつつ成長するものである。それは、世代を超えた異なるものが相互に整合性をとりながら混在する「生態系」であると同時に、局所的な合理性を維持するための自己修復能力をもった「生命体」でもある、といえるのではないだろうか。本研究を通して得られたものは、こうした日本の都市/東京がもつ「生命力」への視座であり、その意味で本研究を『東京論序説』と位置づけることとしたい。


(トウキョウ建築コレクション2010/全国修士論文展 ファイナリスト進出)


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