沖の島に行ってきました その1

こんにちは。青木です。

2011年から伊根→女木島→十三と続いているゼミ旅行×神代研DS再訪企画ですが、
今年は1971年に調査が行われた沖の島へ行ってきました。

ゼミ旅行全般についてはB4が近々記事をUPしてくれると思いますので、
私は2日目の沖の島に焦点を当てて紹介したいと思います。

とりあえず概要について。
沖の島は高知県の最西端、宿毛市から舟で60分くらいの沖に位置しています。
島の周囲は約20kmで、弘瀬と母島(もじま)という2つの集落があります。
この2集落が存在する入江の他は花崗岩の切り立った崖になっていて、まさに断崖絶壁という感じ。


舟のガラス越しなのでちょっとぼけててすいません。

今回は、神代研が調査を行った弘瀬集落を中心に日暮れまで、みんなで歩き回りました。

弘瀬集落は、中心を流れる谷川(やたら大きな花崗岩がごろごろしています)を中心軸として
山から入江に向かって扇を開いたような形をしています。
その傾斜は約30〜40度にもなり、海からは年に255日も風速10m以上の風が吹き付けるそうで、
この厳しい自然環境が弘瀬の景観に大きな影響を与えています。

平地のないこの島の人々は花崗岩を切り出し、石垣を築いてそこへ家も畑も置き、生活を営んできました。
神代先生はその様子を「石の屏風」とか「石で武装した集落」と記述しています。
たしかに、斜面を利用して畑を作るという考え方は、だんだん畑や棚田にも似ているのですが、
そこにのどかさは一切なく、厳しい自然環境と対峙する人々の執念のようなものを感じました。

みんなから、よくここに住もうと思ったなあと、思わず呟きが漏れます。


また、烈風から家を守るため、家々は開口部の少ない妻面を海に向け、
南側に作業場としての庭をおいて、そこからアクセスをとっています。これも沖の島の景観的特徴の1つです。

石垣から張り出している物干し場のようなものは「干棚」と呼ばれ、以前は労働の場としての庭の狭さを補うために切り干し芋の乾燥などに利用されており、神代研の調査当時はここが食事やおしゃべり場としても使われていたそうですが、私たちが行った時はあまり使われている気配はなかったです。ちょっとさみしいですね。勝手にさみしいです。

この干棚ですが、観察してみると色々とおもしろいことが。
たとえば、神代研調査時は竹でつくられていたようですが、
現在は太さの違う塩ビのパイプを組み合わせてつくられているものが多く、
形態を踏襲したまま、材料が更新されているようすが認められました。
(中には支柱は鉄骨の物などもありましたが、床面はほとんど塩ビパイプ)


木でスノコ状にするとか機能を保持しながら更新していく方法は他にもあるようにも思うのですが、無意識のうちに竹と似た形状のものを選択してしまうのは、何とも不思議です。
昨年、青森県の十三集落調査で、コミセ(詳しくは昨年のブログをご参照ください)の形態が現在の建物にも無意識的に踏襲している様子に感動しましたが、それに似たものを感じました。


また、干棚の掛け方にはいくつかパタンがあったようで、
1.一段下にある道にさしかけるパタン



2.干棚を所有する家の石垣を一部くぼませてそこに柱を置くパタン




3.道を挟んで斜め下の土地に柱を置くパタン(これは多分例外でその土地も所有しているようでした。)

などで、一段下の土地に直接柱を置くケースは見つけられませんでした。
宅地を上へ上へと造成して行く際に、一段下の道を抱き合わせでつくるなどのルールがあったのかもしれませんね。とか先生と話しておりました。

1971年当時の堅牢な石垣とコールタールを塗った真っ黒な家々、そしてそれと対比するように軽く、しなやかに立つ竹の干棚という景観は、
ペンキで家々がカラフルになり、干棚はやや軽やかさを失っていましたが、そのDNAは今でも十分感じられて、なんだかとても心強くなりました。

一息に書くとものすごく長くなりそうなので、とりあえずここまで。
忘れないうちに、神社のこと、戸数の変化と空き家の分布のこと、墓のことなど、こつこつ報告します。

おまけ
おじさんがいました。(先生のFlickrより写真拝借)