2014プチゼミ旅行の報告。

遅ればせながら、前期最後の近年恒例プチゼミ旅行についての報告。(画像は後ほど追加していきます)

 7/24,25に、(24)大智寺→遠山記念館→進修館→(24-25)八王子セミナーハウスにてサブゼミ→(25)大宮前体育館というスケジュールで前期を締めくくった。
 今回の目玉の大智寺(1964)は、寺としてはもちろん、日本で最初のアルミ造建築である。本来木造茅葺き屋根の本堂が1957年に落雷のため消失した後、住職によって再建、発願された。この際、アルミニウム合金による「単管シェル構造」が採用される。アルミの軽量さと施工性の高さから、人々が担ぎながら足場を登り、組み立てられたようである。1800mmの長さの単管同士に溶接は用いられておらず、すべてトラスに組まれており、その繊細な線が際立っていた。 天井にはステンドガラスがあしらわれ、空間全体を明るくしている。さらにお堂は奥の方に置かれ、一方で入り口は大きく開かれ、両側面は人の高さほどまで開口があり、三方向から外部を望める。土足で入り込める十分な空間があるために、どちらかというと外部からの連続性が強く感じられた。このような意匠によって一般的なお寺のような重量感はそのまま軽量感に置き換わり、明るく開かれたイメージを持った。これは再建の際、人の集う場としたいと願った住職の意図から導かれた空間だろう。現在でもふらっと近所の親子が立ち寄ったり、ラジオ体操等が行われているように、長年地域の中心となっている。アルミの寺は軽量感をのある意匠とともに、その先駆的試みが地域の財産として認識される特異な建築であった。
 
正面.中央上部に見えるのがステンドグラス                 内部.繊細な印象の軽量なアルミ単管
 

大智寺を出た後、豪農の再興のために建てられた遠山記念館と象設計集団の進修館を経て、大宮駅に向かう。大宮東口商店街はB4の小見山君が調査を行っている。「大宮」はそもそも氷川神社門前町、かつ中山道の宿場町として栄え、鉄道敷設と共に東口が開設された(1885年)。五つの宿場町からなる旧中山道であったが、現在ではその面影はなく、商店や業務ビルが立ち並ぶ。その中でも小見山君は昭和期の面影を残す中低層の商店に注目し、早朝から商店街を訪れ、通勤者やお店の人々を観察しインタビューやスケッチとしてそのまちの生態を記録するという調査を行っている。これからの調査に期待!

その後激しい雷雨の中、八王子セミナーハウスへ向かい、前期最後のサブゼミを行う(内容に関しては近日公開予定のD班ブログを参照)。夜10時から始まったゼミは翌2時過ぎまで続いた。深夜に、それもシナゴークやらテオモルフィスムやら消費とアールデコやら郷村社会やらサパティスタやらで、おれら何やってんだと一人思うこともありましたが(先生は持参したボトルワインを一人で飲み干して終盤爆睡されていた...)、とても充実した楽しい時間だった。D班の発表は密度が高く、いつもどこか確信に迫るなにかがあり、興奮しまくりだった。お疲れさまでした。


※サブゼミ後のようす

翌朝、八王子セミナーハウスを出て、青木淳の大宮前体育館(2014)へ向かう。石榑さん主導で研究室内で青木淳の設計論について議論してからの訪問であった。が、ひとまず、ここまででプチゼミ旅行の報告を終わりにしたいと思う。

前期、みなさんお疲れさまでした。小さな反省としてはサブゼミ3回目の発表が複数班課題が残った。議論を具現化・物質化したいという目標も議論の段階で中々深まらず、達成できず。頭で考えたことを、現実にどう具現化するかがこれから問われてくる。ゼミ・サブゼミで議論したこといかに形の論理に結びつけられるか、これから意識的に臨みたい。


大宮前体育館にて集合写真

そんなこんなで、後期もよろしくお願いします。

M2 吉野

(補足)

・遠山記念館(1936)
 遠山記念館は豪農の家庭の長男として生まれた遠山元一が没落した遠山家の再興のため、母の住居として建設したものである。権力を示す武家風の意匠と、かつて豪農であった農家の佇まいがデザインの主軸となっている。家系の再興のためではあるが、細部は母の為に一つ一つが丁寧にデザインされている。華やかな赤い漆喰のトイレ、転ばないような緩やかなスロープ、化粧道具をしまう収納、冬場に日光によって暖められる場所に敷かれた瓦の床。権威を示す意匠の随所に母のための意匠のストーリーがかいま見られ、遠山の暖かさが建物の肌触りとなって浮かび上がってくる。全体性としての武家+農家のたたずまいに、母のためのきめ細やかなデザイン。象徴としての住居と生活の場としての住居の両面を見た。
・進修館(1980)
 宮代町のコミュニティーセンター。広場を中心とする図式性が、強い意匠を含むいくつかの断面操作によって緩められているというのがこの建物の印象だった。平面は広場を中心とした放射状の軸線に沿って図式的に解かれている一方で、全体的なフォルムはガラスで囲まれた階段室や、屋根から突き出る柱、ホールの架構式の高い天井によって平面図式が立体的に崩されながら表から裏へ突き抜けている。よってホールを含む各居室やその全体は平面計画の拘束から解放され、強い図式を感じさせない空間となっていた。
 ちなみに以前見た名護市庁舎(1981)は、北東側の屋根と床が雁行する外部空間が特徴的であるが、同時に南西の道路に面する垂直に立つ面との対比、二面性が印象的だった。前者は職員のためのテラスであり、観葉植物や洗面台、排水路など涼しく湿った空間となっているのに対し、後者は外部から引きを取って居室が配される、沖縄に一般的な構成で乾いた印象を持った。そしてその乾いたシンプルな立面から大きなスロープがダイナミックに突き出している。
 両者を単純に比較できないが、前者はやはり広場を中心とした図式を基本とした平面、断面操作である一方で、名護市庁舎では北東面の雁行面の図式が強いと思いきや、よく考えると建物としての二面性にその大きな特徴があるのではないかと思った。コミュニティーセンターのようなたくさんの人々が一同に集まる空間と、市民-行政というある対応関係をもつ空間のつくり方が図式の扱い方に現れているのだろうか。また、進修館でのガラスに囲まれた階段室と、市庁舎のスロープは図式的な全体に対して強いアクセントを加えているように思え、共通性を感じた。