台湾調査後半

今年の後半調査は田中という町を8/16-21の5日間で調査しました。

メンバーは前半からの青井先生・亭菲さん・白さん・陳さん・吉田と、後半から参加の青木・倉石・佐藤・笠巻と、一日ずつ参加の呉いくえさんと陳正哲先生です。
昨年調査した北斗とは隣同士の関係で、同じような短冊状の街屋とその背後にどうやらその土地を所有しているらしいという三合院があるらしいということで調査をしました。




見た目としての街屋の実態として、昨年と大きく異なっていたのは前面の1棟は煉瓦造で2層の建物が多く見られたことでした。

まずは事前に用意していた少し古い地積図とお店の数を照らし合わせて土地と建物が一致しているかの確認を行い、
地籍図上で間口が狭くなっていることが確認できるところがあったので、すべての間口幅を測りました。

これによって、初期の状態から計画があったのかどうかを推測することができます。
だいたい18尺(5.4m)が1筆分の間口である場所では3筆分の土地を4筆に分割して4mくらいになっているものもありました。

建物からその土地の所有者がどこまで連続して同じだったかを知るために、一体で建てられた街屋を調べました。
一筆一筆の境界は共有壁になっていて、ファサードの形式が同じものをマッピングしていきます。
連続した間口が多ければ多いほど、初期の段階での地権者の力が大きかったことが浮かび上がってきます。一番大きかったもので9軒連続のものが見つかりました。





町の変遷を探る町班と並行して、実測班も動いていました。

1軒目は調査対象の中心の道(員集路)と直交する駅に続く道沿いにあるもと醤油屋さんの実測です。
ほとんど解体寸前で、解体の準備のため所有している家族の方と大工さんが忙しく動いている中で実測させてもらいました。
今は数が少なくなっているが、昔は商店の典型的な形だったとみられるもので、前面に木造2層の街屋が3件連続で建ち
、中庭を挟んで正身があるもので、前面は店のための空間、中庭は倉庫、正身は総舗もあったことから住むための場所として使われていたと考えられます。
実測させていただいた黄さんご夫婦にとてもよくして頂き、夜ご飯も一緒にいただきました。

またそのほかに実測したのは、街屋の外側にある三合院を2軒実測しました。



これらをふまえて、さらに先生と亭菲さんに聞き取りやとってきたデータについての推測を聞きつつ、
毎晩建物レベルとデータからの仮説を組み立てて、なぜ去年の北斗とはかなり違う、今の状態の町が出来上がっているのかについて熱く議論しました。
 





書ききれないほどの多くのデータがあるのですが、田中の大まかな形成ストーリー(仮)をまとめてみます。

現在の田中の4km西に村があった。
濁水渓の支流の氾濫によって新しい街をつくる計画が持ち上がる。
田中駅ができることを聞きつけその近くの場所に決定する。(地名の通りほとんど田んぼだった。灌漑水路は1719年に完成していた。)
1904年:〈田中第一世代〉
     竹造・茅葺の街屋が建ち並ぶ
     間口18尺(5.4m)、16坪(奥行き10mくらい)
1919年:廟を移動する
1923年:火災発生
    前面の街屋をレンガ2層に建て替え
    〈田中第二世代〉
     レンガ2層の街屋の整然と建ち並ぶ時期があった
−1968年:法改正の前に建替えブーム
1993年:道路拡幅後第二次建替えブーム(東路街、西路街)


このレベルまでの街の更新に関する私たちの推測としては、
主にレンガ2層がまだ多く残っていることに関してですが
 ・共有壁になっていて、建て替えすると狭くなるから
 ・建物の所有権が使う人ではなかったから
 ・北斗とは違って駅に近いため商業的ポテンシャルが高く、必ず焦点を生業とする人が住んでいてその土地を継ぐのはその店を継ぐ者だけとなり、
  継がない兄弟などは外に出ていかなければならず、敷地の中で家族が増大していく現象は起こりにくく、空間を増やす必要が生まれなかった
などが考えられます。


さらに、土地所有者に関しては、一つずつ土地台帳をたどれば所有者をたどることができるので、
上のストーリーにさらに人のストーリー(計画者、権利関係、所有規模、計画意図など)を重ね合わせると田中の形成についてさらに浮かび上がってきそうです。
それについては先生のブログと来年の調査にご期待ください!

協力してくださった田中のまちの人たちに感謝をこめて。
    


(おまけ)
調査後、ちょうど台北で開かれていた代謝派未来都市展にもいってきました!


M1 さとうあやな