サブゼミa班

6月27日にサブゼミa班、3回目のローテーション発表を行いました。

初回はレム=コールハース『錯乱のニューヨーク』(1999 ちくま学芸文庫)をテキストに、資本主義という1つのシステムが無自覚的に都市を作り上げるということについて紹介し、2回目は八田利也『復刻版 現代建築愚作論』(2011 彰国社)を取り上げ、今度は日本における都市とシステムの関係を議論しました。

そのようなテーマの流れを引き受けた最終回は、以下の3点を軸に議論をしました。

1) 巨大建築論争について
巨大建築論争は1974年に新建築誌上に掲載された神代雄一郎「巨大建築に抗議する」に端を発し、それに対する村松貞次郎や林昌二の反論を指します。神代氏は「4000人とはなにごとか」と建物の肥大化を問題にしますが、この状況は『錯乱のニューヨーク』の中に登場するラジオシティ・ミュージックホールの部分を思わせます。神代は建物が巨大化する過程でヒューマンスケールを見失い、単なる資本主義の産物に成り下がっている状況を批判しました。これに対する反論の中でも林昌二が「その社会が建築を創る」として、資本主義が生む需要が建築を創るのであり、建築家にその責任の所在を求めるのは「買いかぶり」と割り切った姿勢を示したのはとても興味深い言説でした。

2) 1950年代の小住宅作家たち
前回『現代建築愚作論』を紹介した際に、八田が述べていた小住宅作家の手掛けた住宅をオムニバス形式で紹介しました。(吉坂隆正/清家清/池辺陽/林昌二/増沢洵)
「小住宅」といっても、今日における小住宅と当時のそれは取り巻く状況も、実際の建物としてもかなり違った様相だということが紹介できたかと思います。当時は住宅金融公庫からいかに融資を受けながら住宅を建てるかということがかなり重要なポイントだったため、それぞれの建築家が制度を利用するための工夫をしていたことが見えてきました。

3) 現代における建築家の職能の変化
最後に、「それでは現代の建築家の職能はどのように変化しているのか。」ということを議論するために、藤村龍至氏の「批判的工学主義」を紹介しつつ、これまたオムニバス形式でいろいろなタイプの建築家とそのプロジェクトを挙げました。(藤村龍至/石上純也/藤本壮介/アトリエ・ワン/吉村靖孝/中村拓志/小野田泰明/山崎亮)
議論の焦点は藤村龍至『アーキテクト2.0』で言われるような建築家像はどんなものなのかということでした。そのなかでも個人的に面白いと思うのは、東京R不動産の馬場さんのように既存のストックに付加価値をつけてそれを新しいメディアを媒介して流通させたり、山崎さんのようにプロジェクトの中でコーディネーター的役割に特化して振る舞う建築家が登場していることです。これまでの狭義での「建築」にとらわれない、さらに上流にある「アーキテクチャ」を設計するしようという流れの萌芽として彼らのプロジェクトを見ることができるでしょう。


特に3つ目のトピックに関しては班でもいろいろな意見が出て、今の都市の状況に対して特に若手の建築家がどのようなスタンスでプロジェクトに向き合い、職能を立てようとしているのかについて、オープンな議論ができたのではないでしょうか。しかしもう少し班の中で煮詰めて議論のフレームをはっきりさせておくべきだったかもしれません。反省。今後に生かします。



サブゼミの醍醐味は、1冊の本の内容を知識として頭にインプットして終わりではなく、それを一度頭のなかでバラして「その話、日本の場合だったらどうなんだろう」だとか「あの人の言説と意味的には通じるよね」とか言いながら、他のあらゆる情報と繋げながらストーリーを再構築する所にあると思います。その作業では各々が蓄えてきた知識だとか体験がフル動員されて、それらを直感的にリンクさせて行くというプロセスが必要になります。そういうのを大人数でやっていると、最初読んでいた本の内容から思わぬ示唆を読み取れたり、議論できることの射程が創造以上に広がることを体験することになります。
前期の3回の発表を通じて、そんな感覚を4年生も掴んでくれたのではないでしょうか?
言うまでもなく僕もとても勉強になりました。


個人研究もいよいよ3周目(前期ラスト)に突入しましたね。
前期ラストスパート、がんばりましょう!


hayashi (M1)