岐南町の長屋門


 岐阜県岐南町。僕の実家のある岐阜市の隣の町で、790haくらいの小さな町である。この町には長屋門がかたまって残っており、昭和61年に行われた町の調査によると町内に59棟(昭和61年当時)もの長屋門が存在したという。先日、岐南町歴史民俗資料集編纂委員会編の『民俗資料集5 長屋門編』(岐南町歴史民俗資料館、1988)を片手に、岐南町を歩いてきた。昭和61年当時の分布図より長屋門の数は減っていたものの、現在でも多いところで半径80m以内に10棟ほどの長屋門が集まる地域があった。

 元々長屋門武家住宅で採用された門形式で、町民・農民の門の造作は禁止されていた。しかし江戸中期頃から町民や農民は次第に経済力を付け、その反映として家に対して奢多造作を行った。門の建設もその一つである。奢多造作の禁止については度々触書などに見受けられ、早いものでは延宝5年(1677)仙台藩の「御式目」に見られる。ただし奢多造作としての門の種類に長屋門が含まれたかどうかは明かでない。
 全国に残る農村系長屋門のうち最も古いと確認できたものほ、正徳年間(1711-16年)のもので、代々名主をつとめ、名字帯刀を許された家であった。江戸時代の建設は名主層に対して支配者から特例的に許されたものが多い。また名主層以外では,天保の飢饉の際に「お救い普請」・「飢饉普精」として穀物を備蓄していた農民に長屋門を建てさせ、労賃の代わりとして穀物を与えた例が各地でみられる。(安武敦子、大月敏雄、深見かほり、杉本武志『茨城県美野里町における長屋門の成立過程 : 伝統的景観の保全および活用に関する基礎的研究 その1(地域特性と住宅(2),建築計画II)』日本建築学会大会学術講演梗概集(東海)2003年9月)

GURE
 『民俗資料集5 長屋門編』によれば岐南町長屋門のうち、江戸時代に建設されたものは、やはり庄屋*1格の家がほとんどであるが、調査時に現存していた長屋門の内2/3以上は、明治以降に建設されたものである。どうやら岐南町では、明治から大正にかけて庄屋格以外でも財力のある農民が競争のよに建てていったために、長屋門を持つ民家が密集するという現象が起きたようだ。門の両脇の空間は、現在多くが倉庫になっているようだが、以前は男衆とか作男、女中が住んでいた家もあったようである。残念ながら、なぜ財力のある農家が集まっていたかは、僕がちょっと調べたくらいではわからなかった。
 現在も、それぞれの家が改修しながら門を保存している。窓がガラス窓・アルミサッシュに変わったり、腰壁が板張りからモルタルになったり、中には古くなった長屋門を建て直した家もある。面白かったのは配置で、長屋門を持つ民家は必ず南側で接道し門を構え、それを潜ると庭が広がり、敷地北側奥に母屋が配置されている。そして、その間(東側と西側)を埋めるように蔵や離れが建てられ、全体としてコートハウスを形成している。車の取扱いはというと、門の脇の空間を車庫に改築して使っている家や、南側以外でも接道する家では離れなどと並んで庭を囲むヴォリュームの1つが道に開く車庫となっている家も存在したが、小型車の場合は門の下をそのまま車庫にしている場合が多かった。岐南町長屋門の大きさは間口11,000〜13,000mmで、奥行き3,500〜4,500mmが多く、門の幅は2,400〜2,600mm、高さは2,200〜2,400mmが一般的。

 門の下に縁台を置いて座っているおばあちゃんに話を聞くと、門は朝起きると開け、夜5時くらいに暗くなると閉めるそうだ。門の下には小さな傘をかぶった電球が付いていたが、家を訪れる人は明るい時、門が開いている時に来るためほとんど使わないという。もうひとつ聞いた話で面白かったのは、戦中期のこと。長屋門や蔵は外壁が漆喰で白く、敵の戦闘機から目立つために、みんなで灰を塗って黒くし、戦争が終わるとまた洗い流したそうだ。
 写真が携帯で撮ったもので、荒いですがあしからず。次回、帰省したときに時間あればもうちょいちゃんと見てきます。

*1:名主のこと。