都市デザインの方法・見えない都市・伊東豊雄

前回のサブゼミで、磯崎新の「都市デザインの方法」(『空間へ』美術出版社 1971/ 初出掲載:建築文化 1963年12月号)を読んだ。そのまとめと思うこと。
この論文は、当時までの都市デザインを4つの段階として整理し、その最終段階として新しい都市デザインを体系化しようというものだった。磯崎が整理した都市デザインの発展の段階とは以下の4つである。


  実体論的段階
  機能論的段階
  構造論的段階
  象徴論的段階


一つめの実体論的段階とは、建築的造形が都市計画に直結していたものである。都市を美しく装飾する都市美容術的役割を担っていた。あくまでも、都市デザインは建築の延長線上にある。
少し蛇足になるが、磯崎は『空間へ』のなかで実体論的段階に入る中世の都市を空撮したときに、それを「島」と表し、上空からの視覚は地上での都市の記憶をより豊富にしてくれると述べた。(ちなみに、構造論的都市までは上空、つまり外部から見えるが、現代の都市は内部に踏み込み、動き続けている限りにおいて、人間は五感で都市を感知できるといている。)これに前回読んだ『神殿か獄舎か』(相模書房、1972/初出掲載:『デザイン』1971年11,12月)は激しく抗議していた。しかしその論は、かなり強引なモノである。もう一度、その「中世は空から見えない」(P206)を読み返したが、長谷川堯の主張はかなり無茶苦茶だと思いながらも、あまりにも熱いその主張には改めて圧倒された。


実体としてしか扱われてこなかった都市から、CIAMアテネ憲章は4つの機能《すまう、はたらく、いこう、循環する》を抽出する。この段階が機能論的段階である。この段階において、都市デザインとは機能をネットワーク状に構成することであった。これらの要素を、それぞれ結合し、全体を一つのものとして統合することである。この考えは、機能を実体の都市から抽出し、デザインするという意味で、実体論から飛躍しているのは確かである。しかし、機能主義の空間は抽象化されたダイアグラム空間でしか無く、その図式を実体に落とす実体概念、抽象と実体を繋ぐ媒体を持ち得ていなかった。CIAMの提案の中に、実体への媒体を捜すとすれば、ル・コルビュジエの《みどり・太陽・空間》である。コルビュジエはこのスローガンを、4つの機能と対立させデザインを行うことによって、実体空間への媒体としていた。


機能論的都市デザインは、概念的に図式にしかなりえなかったにもかかわらず、実際にははっきりとしたパターンを持っていた。ブラジリアのジェット機へのアナロジーや、シャンディガールの人体機構の様なものである。その原型は《輝く都市》。《輝く都市》はビジネス・センター《はたらく》を頭部とし、文化センター《いこう》を心臓、住居地域《すまう》を肺などとしたものである。これが、ダイアグラム空間でしかなかった機能主義が、実体的形態を持つことを意識し始めた、構造論的段階への萌芽であった。具体的には、スミッソンの《アーバン・インフラストラクチャー》キャンディリス、ウッズらのトゥルーズ計画における《幹》丹下の《都市軸》など50年代以降意識され始めた提案があげられている。


以上3つの段階が、磯崎が過去の都市デザインをきっちりと整理したものであった。これにつづく段階として開発しようとしていたのが、象徴論的段階、あるいはシンボル論、記号論的段階である。この段階のスタートとして、都市空間のシンボル的解析の例(ケペシュ、リンチ、クレイン、シール)をあげる。これらに共通するのは、あらゆる対象がを、仮象としての記号に転換することである。また、エレメントはそれ単体でも、それが置かれている状況、つまり都市全体すらもシンボル化される。現代の都市を認識するときには、正確な地図よりも、その都市のイメージを記号化して表したほうが、イメージに近い形で表現できる。このように象徴化してとらえた都市空間を、実体へかえす媒体を『モデル』として、システム・モデルとイマジナリー・モデルがあげられている。
システム・モデルはシステムを媒体とするものである。システムとは、都市のパターンの中でエレメント同士を関係づけその動きを限定する、概念であり実体ではない。シンボルはエレメントの表象であるから、シンボル相互の関係を規定するためにシステムを導入することは可能である。それゆえに、システム自体が『モデル』と言えるのである。クリストファー・アレクザンダーは「都市はツリーではない/1965」とし、セミ・ラチスのようなパターンをとるべきだと主張した。これは、ほとんどの構造論的パターンを否定するものだが、都市を一つのシステム・モデルとして構築する意図を持っていると磯崎は考えている。
イマジナリー・モデルとは、象徴論の手続きをとった空想都市のイメージは、現代都市が既に様相でしかないために、それを操作することによって実体に投企することができるというもの。これは、60年代の磯崎を含めた建築家の、空想的な都市デザインを位置づけ、実際にそれが実体のモノとなるための論であるが、同時に都市内部にイメージ都市がなんの摩擦もなく存在する未来がくるだろうことを予言していたのかもしれない。つまり、ニューヨークにおいて最初は都市の外部であるコニーアイランドに存在していた仮想世界を、マンハッタン自身がはらむようになったこと。ジョン・ジャーディーが世界中の都市につくっているような、その都市とは無関係の商業都市空間など。


この論文の最後の章は“見えない都市”という題がつけられているのだが、これはその後の「見えない都市」(『空間へ』美術出版社 1971/ 初出掲載:展望 1967年11月号)で詳しく書かれている。見えない都市とは、以下の4つのような性格を持つ都市である。

■ 動き回ること。移動スピードの加速。
■ とめどなく拡散し、いつまでも牢固な像を結ぶことがないこと。
■ 広告や騒音の無限の増殖の渦中にあること。(記号の支配する空間。界隈性。)
■ 成長・変化・代謝のさなかにあること。

ここで磯崎は、ロサンゼルスを語った上で、それよりも複雑で多様化し混沌としたのが東京だと言うのだが、この60年代における磯崎の見た都市と、80年代後半における伊東豊雄の見た都市には共通性があるように、両者の文章から感じる。
上に磯崎の言葉としてあげたモノは、80年代後半に伊東の文章中で語られるたことを、思い出させる。東京遊牧少女。ノマディック。消費記号で埋め尽くされた都市。都市体験は断片化され、疑似的、刹那的である。衣服がスタイル、かたちを喪うはるか前から、東京は既にかたちを喪っていた。途方もなく拡がる、宙に舞う巨大な布のごとき空間・・・など。今、ふと思い浮かぶだけでもかなりある。
磯崎と伊東の前に現れた都市の共通性については、青井先生が「現代建築批評の方法」(10+1、INAX出版、14/1998年8月)で少し書かれているのだが、ここでは僕自身がリンクすると思った、伊東の言葉をあげた。


今年の5月から約2ヶ月サブゼミで、いろいろな文章を読んできたのだが、改めて伊東豊雄の論文を読みなおさなければと感じる。夏休みにゆっくり再読しようと思う。それと、紹介していただいたのにまだ読んでいない、青井先生の伊東豊雄論(『建築思潮』05, 199703)読まねば。すみません(汗


次回サブゼミ(本日)は「都市はツリーではない」


GURE