「建築家 坂倉凖三展」開催記念シンポジウム


国際文化会館で行われた、坂倉凖三展開催記念シンポジウムにビデオ係として参加したので、そのレポート。


今回のシンポジウムは午前の部で、磯崎新高階秀爾が坂倉を自由に語り、その司会を鈴木博之がつとめ、午後の部では坂倉展に関わり、研究をされた先生方6名と、内藤廣がディスカッションするというプログラム。
坂倉凖三という今まであまりはっきりと語られてこなかった建築家のシンポジウムなのだが、シブすぎるのか、学生らしきお客さんはほとんどいなかった(汗)


まず、全体を通しての感想。
「正直、よくわからなくなった」と、言うのが簡潔な感想である。今回いろいろな視点で、坂倉を見ることができたのだが、シンポジウムのテーマである「坂倉凖三の〈位置〉を考える」に積極的な答えを、はっきりと示せたパネラーはほとんどいなかった。いろいろな坂倉像は示されても、坂倉凖三という特異な建築家を位置づけるに足りる視点はあまり見えず、かえって霧に包まれてしまった気分だ。


シンポジウムの中で、何度も言われたのは坂倉はわかりにくく、語りにくいということ。その理由として、坂倉自身があまり語らなかったということもあるのだが、建築作品の性格にもその原因がある。坂倉の作品は、何か突出した表現、アイディアによってできるモノではなく、周りとそこに入る作品によって、総和的に相対的にできるモノである。また、それは人間のことをよく考えられており、非常に「優しい」モノなのだ。つまり、前川、丹下の持つ「強さ」に対して、坂倉の建築は「弱さ」を持っていた。


午後のシンポジウムで、一番キレがいいと感じたのは、スタートに「(坂倉凖三が)キレが無いには訳がある」と言った内藤廣だった。内藤の指摘は、スーパースターである丹下に比べれば、坂倉はキレが無い。それは、人間のことを考えていたからだ、ということである。また前川、丹下は国家を背負っていたのに対し、坂倉はマチ(人間的、民衆的なもの)を背負っていた。前川の重さは過去、記憶を見ていた。丹下のキレは未来、希望を見ていた。対して坂倉は、現在、民間の明日の利益を見ながら仕事をしていたということだ。
また、都心なら石川栄躍。郊外なら、高山英華。と、日本の都市は土木が作ってきたのだが、唯一建築家として都市を設計できたのは、坂倉だけだったとも内藤は指摘した。これは青井先生の発表と、いくらか重なった…

坂倉は難波、渋谷、新宿と都市に関わるのだが、これらのプロジェクトは既存の周辺環境と設計条件を柔軟に理解し引き受けて、設計されたモノである。突出したアイディアで解こうとゆうのではなく、ある意味「弱さ」でもって全体を調和させるデザインである。


他のパネラーの視点は、コルビュジエと坂倉、前川と坂倉、坂倉の家具、民芸…


とまー、いろいろディスカッションはされたのだが、実際にその「弱い・優しい」建築家がとったであろう、「強い」建築家とは違ったスタンスはなかなか見えてこなかった。

突出したものではなく、調和的なデザインという「キレが無い」坂倉凖三を積極的に位置づける、坂倉だからこそ発見できる切り口が、提出されるべきだと感じた。


(午前の磯崎新高階秀爾の論は鎌倉のカタログに書かれているので参照されたし。)


GURE