建築学会大会発表

2013年度の建築学会大会発表が、北海道で開催されるということを聞いて、
青井研として、初めて論文を発表しました。

意気込みすぎて、なんと10本も出してしまったので3月の終わりあたりは先生も含め相当しんどい思いをしましたが、
無事全部通過し、北海道での発表に至りました。


内容は、
「台湾澎湖縣吉貝集落の変容過程に関する建築類型学調査」 その1−その4(林・滝沢・西村・青井先生)
「台湾彰化縣北斗鎮市街地における竹造町屋と都市変遷過程に関する研究」 その1−その4(青木・吉野・倉石・野口)
「伝統的民宅餘三館にみる近代台湾農村の景観・生活」 その1・その2(陳・佐藤)
2011年、2012年の台湾調査について大きく分けて3つの話題について発表しました。

石榑さんも個人で「池袋西口民衆駅の計画・建設過程について」を発表したので、青井研の先生を含む院生以上は全員参加したことになります!



8/30(金)
ぐれさんが最初に発表して、
次のセッションは全て青井研の発表。
先生のパネルディスカッションが重なっていたこともあり、最初に北斗のその1その2の発表があり、
間に吉貝のその1−その4の発表でした。
青井先生がなかなか教室に現れず、はらはらでしたが無事に間に合って、練習通りスムーズな発表でした。

質疑応答は全て青井先生に答えていただいてしまいました。。
吉貝については4つの建物類型の名前、特に塔型は他のとは違って建物の形に関する類型になっているのではないかという指摘でした。
これについては、即物的に名前を付けてはいるが、それぞれにおいてサーキュレーションが異なるため類型として成り立つ、ということでした。
北斗に関しては、やはり竹を抜いてつくる構法は珍しいようで、インドネシアの竹をくくってつくる構法と比較した質問をいただきました。

次のセッションに移って、北斗の後半2本の発表でした。
主に建物の更新に関する発表で、これについても1つ質問をいただいたのですが、近くに座っていた白さんの助けを借りて答えることができました。

いかに自分たちが狭い範囲でしか興味を持っていないかということが分かった反面、
発表のストーリーとしては、捨象されている分かなり面白いものになっているのではないかと思いました。


そして夜は法政の高村研と合同飲み!

高村先生行きつけのおいしい焼き鳥屋さんに連れて行っていただきました。
お店は貸切で、全員座るとかなり密度が高かったですが、賑やかでいい空間でした。笑
高村研のキャラが強いながらもとても話しやすいM2の方々と、初対面だった静かながらも強い個性を秘めたM1の方々と、高村先生のお友達と、高村先生と、
真面目な話をしたりそうじゃない話もしたり、とても盛り上がりました。
ありがとうございました!!!




9/1(日)

一日空いて、3日目の大会最終日は陳さんと佐藤の餘三館の発表でした。
吉貝と北斗の発表は、以前法政大の高村先生を中心とするアジアの都市住宅研究会で発表した内容だったので、
最初から内容はかなりまとまっていた(と思う)のですが、餘三館に関しては、大会のために論を組み立てたのでストーリーについても図版などについてもかなり大変でした。

その1で餘三館を取りまく風景の変容について、その2では実測した物的な建物の変容について。
私の発表がかなり早口になってしまっていたこともあり、東洋建築史の分野でだしたのでかなり異質なテーマでもあったためか、
なかなか質問してもらえなかったのがとても残念でした。


色々ありましたが、全員無事に発表を終えることができました。
先生をはじめ、白さん、調査は一緒にやったけれど発表に名前を入れることができなかった先輩、ありがとうございました!!
発表をした北大の校舎の前で記念写真!



(注)学会発表編は終わりますがゼミ旅行編が連続します。
学会発表から参加だと4泊4日+2泊3日の長い旅行です。
  

北大を出たあとジョージさんの熱い希望によりサッポロビール庭園に行ってジンギスカンをおなかいっぱい食べ(偶然にも伊東豊雄設計!)、
苫小牧から八戸までシルバーフェリーに一晩乗って向かいました。
次の日から合流する体力万全なB4をがっかりさせないように、船内でさっとお風呂に入って、すっと就寝しました。(つづく)


M1 さとうあやな

津軽/十三集落再訪。

今回、2013年度のゼミ合宿の時間の一部を利用して十三集落の調査を行いました。実際に街を歩いたのは2時間程度で調査というにはお粗末ですが、そこで見聞きしたことについて備忘録としてここで報告しておきたいと思います。(※ちょっと長いです)

十三集落概要
 岩木山に源を発する岩木川がその河口でつくる十三湖と、日本海に挟まれた細長い陸地に十三集落は存在する。この集落は全長約1キロメートルの紐状の道路をはさみ、民家が建ち並んだ姿をしている。
本州は現在その太平洋側に東京・大阪・名古屋などの大都会や大工業地を持ち、日本海側よりも開発が進んでいる。しかし、中世には日本海側と太平洋側の発展にはそれほど大きな隔たりはなく、太平洋側は陸路によって、日本海側は水路によって発展していった。 
 ここは中世には十三湊と呼ばれ、日本海側の主要な7つの港町に数えられ、材木や毛皮が積み出され明治のはじめまで繁栄を極めていた。

神代研究室デザイン・サーヴェイ
 明治大学神代雄一郎研究室は1967年の女木島から1980年の高山町までほぼ毎年、夏期休暇を利用してデザイン・サーヴェイを行った。日本におけるデザイン・サーヴェイはオレゴン大学の学生が伊藤ていじらと共同で行った金沢の幸町の調査にはじまり、1960年代から1970年代にかけて東京芸術大学の益子研究室や法政大学の宮脇研究室をはじめとする数多くの研究室によって行われた。神代研究室の前期デザイン・サーヴェイは辺境の漁村集落を調査対象とし、その地の民衆の祭や文化、生活などの調査に主眼を置き、建築系雑誌等の媒体にその成果をまとめている。神代は巨大建築論争でも知られるが、彼の巨大建築と建築家に対する批判はこれらデザイン・サーヴェイによって培われた独自のコミュニティ論の文脈の中で理解されるだろう。

十三集落のデザイン・サーヴェイ
神代研究室が十三集落の調査を行ったのは1972年8月である。この調査は松本勝邦(元明治大学専任講師)を中心とする31名の学生と神代によって行われた。調査は神代と松本がその地の図書館をあたって文献収集を行い、学生が現地での聞き取りと実測をするという方針で行われた。この調査の詳細は『日本のコミュニティ』(鹿島研究所出版会1977)と神代雄一郎『コミュニティの崩壊』(井上書院1973)にまとめられている。1972年当時、集落の戸数は250戸、人口は984人であった。この数字は「200戸1000人」をコミュニティの適正規模とする神代の主張と大きな隔たりはないが、かつての繁栄からは想像できないような衰退ぶりであると前述の報告で述べている。この衰退の原因の1つは岩木川によって運ばれてくる土砂の堆積である。それによって十三湖の水深が次第に浅くなり、一方で日本海側の海運に使用される船舶が巨大になったために十三の港は物理的に利用出来なくなっていった。また、明治の半ばから昭和のはじめにかけての内陸部の鉄道網の発展も津軽地方を手中に収めたものの、この地域は置き去りにしていった。
 これらの文脈から、神代はこの集落のコミュニティを2つの適正規模のコミュニティが肥大化して一続きになったが衰退し、かろうじて250戸984人の規模に踏みとどまっているものと位置づけている。


ベースマップ 『日本のコミュニティ』(鹿島研究所出版会1977)より



十三集落調査
調査前日は雨のなか弘前で前川の建築を数点見学させていただき、日の傾きかけた時間帯に胸を高鳴らせてレンタカーで十三へむかった。岩木山を横目に見て走るうちに日も暮れ、水面だけが薄く光る岩木川に沿って北上した。「和歌山」という十三集落の北端にある旅館に宿をとる。到着して最初に目をひいたのが玄関に大きく掲げられた「しじみラーメン」の看板。いかにも過疎の集落といった暗闇のなかで、不自然なくらいその看板だけがこうこうと光っていた。衰退していく港が起死回生のために始めたのがシジミ漁であるという前知識も邪魔をして、さらにわびしい風景に見えた。

 調査当日はゼミ合宿最終日にして最初の快晴で、傘から解放された手にしおりを持ち、首からカメラを下げ、意気揚々と十三集落を歩いた。この集落を歩いていて、まず目につくのが木製の柵である。この柵はカチョあるいはカッチョとよばれ、冬期の苛烈な風雪から農作物と家屋を守る役割を持つ。当時は流木を組んでいたようだが、現在ではその多くが規格化された木材で造られたものに更新されている。
 また、道路をはさんで並ぶ民家はその道路側に「コミセ」と呼ばれる庇を差し出し、それを両隣のコミセと連続させる事によって冬期の交通路としていた。コミセによって緊密に連絡づけられた集落の空間構成が、この集落の祖型である。神代達の調査当時にはこのコミセが散見されたが、現在コミセの残る民家はほとんど残存していない。


※カチョ 規格の材で作ったものに更新されている


旅館の裏手に出て十三湖に沿って歩く。神代研究室の報告の写真を見ると岸にはカチョが並ぶが、平成21年に行われた十三湖の護岸工事によって港の風景は随分整然としたものになっていた。
 十三湖の漁場は短冊状に区分されており、それぞれの舟がその漁場の位置を示している。
 この漁場の幅は集落を貫く通りに面した土地所有の幅を延長させて地先権の様に使用していると仮説的に考えられる。とすると、神代の報告にはないが、一筆の短冊状の土地の中で断面方向に「漁場−漁具置き場−畑(農業による収入は得ていない)―住宅」という完結した生産と生活の空間を観察することができ、埼玉県の三富新田にも似た印象を受ける。また、生産の中心が漁業であるこの集落において十三湖の側の土地を所有しているということは絶対的に有利だったはずであり、十三湊の時代からの有力家族が十三湖に多く並んでいるのではないかと推察される。

 
※現在の岸の様子

 
※菜園と神明宮
 
 御年80歳になる漁師の方に話を伺うことが出来た。現在でも100名程度のシジミ漁師がおり、2名は女性だそうだ。仲買人が来てシジミを買い付けていき、1日の収入は最低でも5万円、多いときには10万円にもなる。ここでは、比較的気温の高い春から秋にかけて漁を行い、冬の「しばれる」時期は家から出ないで過ごす。
 また、十三では2001年に小学校が廃校となった。そのため若者が減少の一途をたどっているかと思いきや、シジミ漁をするために若い人たちが入ってきており、16名の若者衆が嫁を募集しているという宣伝をされた。

 
※現在の十三小学校。グラウンドから十三湊の時代の遺跡が発掘された。神代の時代にはこのグラウンドで砂山踊りが踊られていた。

 また、肉と酒を売っていた商店(地図で赤く示した)のおばあさんにも話を伺う事が出来た。彼女は神代達が行った調査のことを記憶してはいなかったが、当時の図面から彼女の店にもコミセがあったことが分かる。建物の更新が進んでおり、精確な場所の特定は難しいが、現在でも残存するコミセを持つ民家の場所を地図にプロットしておく。(神代の地図と現在の航空写真を照らし合わせて場所を特定している)


※トタンのうろこ状のファサードが特徴的。よく見ると桁が両側へ差し出されている。後ろは新しい住宅に更新されている。
 
※当時のコミセを持つ民家。

※コミセの跡?

 神代研のコミュニティ調査とは少し話が逸れるが、当時の図面を見ると現在のミニ開発のような形態で似た間取りの住宅の並ぶ区画がある。これは旧村営住宅だそうで家を継がない次男以下の家を持たない者たちのために建設され、その後払い下げられたようだ。一番手前の民家はほぼ当時の姿で残されており、その他は部分更新あるいは増築がされていたり、丸ごと建て替えられたりしている様子が観察できた。

 
※右の写真の民家はほぼ当時のままの姿を留めている。

 
 2時間程度の短い調査であり、現存する建物は非常に少なかったが、集落の生産と生活が密接に結びついた空間構成と約40年前からの更新の過程を観察する事が出来、非常に興味深い収穫を得た。将来へ続く時間軸の中のひとつの定点観測となれば幸いである。

 
※床屋さんの屋根にハッポウと呼ばれる明りとりの天窓が見られた。

(※市浦村史と十三湊の考古学文献をあたる予定。それについては追記で補足させてください。)

追記
松本先生を「元明治大学教授」と書いていたのですが、退職時には専任講師をされていたとのご指摘を頂き「元明治大学専任講師」とさせていただきました。
また、コミセの「梁」が両隣に差し出されている、というところも正確には「桁」の間違いでしたので訂正させていただきます。


M1 青木