『近代都市』西沢大良/掲載:『10+1』No.1 1994

非常に面白い記事を見つけたのでご紹介。

『近代都市』西沢大良/掲載:『10+1』No.1 1994
(→http://tenplusone-db.inax.co.jp/backnumber/article/articleid/377/



以下、簡単に要約。

近代都市が問題視した「都市問題」とは、近代都市計画のヴォキャブラリーによって人為的に仮構された「にせの問題」にすぎない。例えば「緑地」というものは、かつての江戸の人々にとっては社会階層的に分割/排除される場所を意味していた以上、今日我々が感じてしまう「快適さ」はある歴史的な時点で出現した存在であると言わざるを得ない。同じように木賃地帯の「危険性」なるものは、江戸時代には「火災」そのものが職人たちの経済生活を成り立たせていた以上、「インフラストラクチャー」というテクノロジーの登場によって、はじめて「危険なもの」として対象化されたものである。つまり原理的には「近代都市」こそが「都市問題」を生み出す原因である。


ここで西沢が指摘していることは、以下の2つ。
1:どのようなテクノロジーであっても、事前に予期できない結末をもたらす。近代都市の歴史性。
2:我々が普段「都市問題」として設定しているもの自体が、かつてある時点で根底からくつがえされて形成されたものである。歴史的現実。


このことをふまえて西沢は、

諸テクノロジーのもたらす効果が累積する中にしか我々の現実はありえないし、それらのテクノロジーの歴史的出現によってわれわれ自身すらも形成されてしまっている以上、それ以前のものを回復しようとするのは反動的でしかない。(中略)つまり我々は、もはや素朴にモダニズムを唱えることはできず、なおかつ事実上モダニストであらざるを得ないのである。

とつづり、最後に、「近代都市」におけるあらゆるテクノロジーのもつ歴史性を検討しつづけるより他にない、と締めくくっている。



15年も前の文章だけど(むしろだからこそ)、非常に完成度が高くてキレ味がある。モダニズムを単に否定するのではなく、それによって引き起こされたことを客観的に分析して、自らの宿命として受け止めようとする姿勢は非常に勉強になる。よく学校で指導されるような「問題−解決」という構図は果たして今なお成立しうるのだろうか、結局それは「解決したつもり」になっているだけで、新たな「問題」を引き起こすんじゃないか、とか色々考えさせられる。もちろん「じゃあ私たちはどうすればよいのか」というのが次の議題として浮上するわけで、そのへんの議論も今後探してみたい。


それにしてもこの文章を30歳で書いている西沢さんってすごい。一読の価値ありです。
建築家が歴史を学ぶということは、自らの宿命について学ぶということなのかなぁ。。。とか思いました。



M2 miyachi(blogより転載:http://d.hatena.ne.jp/miyachikunihiko/